
皆さんの職場にはマニュアルがあると思います。そのマニュアル、現場の実態に合っていると感じているでしょうか。
「なんでこんなマニュアルになっているんだ」と思ったことがある方も少なくないのではないでしょうか。
一方で、マニュアルを作る側の方は「なぜ現場はマニュアル通りにやらないのか」と感じているかもしれません。
この両者のすれ違いを説明してくれるのが、今回紹介する「Work-as-Done(WAD)」と「Work-as-Imagined(WAI)」という概念です。
レジリエンスエンジニアリング(※)の分野から生まれたこの考え方は、安全管理における本質的な課題を浮き彫りにしてくれます。
(※)しなやかな強さを構築する技法

Work-as-Done(WAD)とは、現場で実際に行われている仕事のことです。
Work-as-Imagined(WAI)とは、管理者や設計者が想像している仕事のことです。
この二つの概念は、安全科学者のエリック・ホルナゲル(Erik Hollnagel)がレジリエンスエンジニアリングやSafety-IIの文脈で提唱したものです。
大きな組織であればあるほど、現場で実際にどのように仕事が行われているかを、管理層がすべて把握することは難しくなります。
管理層は「現場ではこのように仕事をしているだろう」と想像して業務を設計し、ルールを作ります。しかし、この想像と現場の実態には、ほぼ必ずと言っていいほどズレが生じます。
ホルナゲルは、従来の安全管理(Safety-I)が「仕事は想像した通りに行われるべきだ」という前提に立っていることを批判し、安全を向上させるためにはまず「仕事が実際にどう行われているか」を理解する必要があると主張しました。
WADとWAIのズレは、安全管理において深刻な問題を引き起こします。
多くのマニュアルや手順書は、トップダウンで作成されます。つまりWAI(想像上の仕事)をベースに作られています。
これは仕方のないことでもありますが、結果として現場の実情に合わないマニュアルが生まれてしまうことがあります。
また、想像をベースにしている以上、想定外の事態が盛り込めないという宿命的な問題も抱えています。
WAIに基づいて作られたマニュアルが現場の実態に合っていない場合、現場の作業者はそれを柔軟に運用し、調整しながら仕事を回すことになります。
現場には現場の知恵があり、その調整力によって日々の業務が成り立っている場合も少なくありません。
しかし、ここで厄介な問題が起きます。WAIの世界にいる管理層から見ると、現場の人間は「言うことを聞かない奴らだ」ということになってしまいます。
一方で、現場から見ると「上の人間は現場のことを何もわかっていない。こんなマニュアルを押し付けてくる」という不満が募ります。
こうして両者の距離がどんどん離れていき、組織として安全を確保するためのコミュニケーションが機能しなくなってしまうのです。

WADとWAIのすり合わせは、安全な組織運営において極めて重要です。
特にマニュアルを作る側の方に意識していただきたいことがあります。
マニュアルが守られていないと感じたとき、つい「現場の人間のレベルが低いからマニュアルを守らない」と考えてしまいがちです。
しかし、そもそも自分たちが想像している仕事と現場の実態が合っていないのではないか、という可能性にも目を向けていただきたいのです。
現場を確認し、なぜマニュアル通りにできないのかを聞いてみることで、お互いの誤解が解けることもあります。
一方、現場からのボトムアップの声も重要です。「上の人たちはわかっていない」と感じることがマニュアルの中にあれば、そこは積極的にコミュニケーションを取っていくことが大切です。
「このマニュアルのここが現場に合っていません」「こうした方が安全に作業できます」という具体的なフィードバックを伝えることで、WADとWAIのギャップを埋めることができます。
このボトムアップのコミュニケーションがうまく機能するためには、心理的安全性が不可欠です。
「こんなことを言ったら面倒だと思われるのではないか」「上に逆らっていると思われないか」といった不安があると、現場からの声は上がってきません。
WADとWAIのすり合わせは、心理的安全性が確保された環境があって初めて実現できるものなのです。
気になった方は、安全辞典の「心理的安全性」の回もぜひ読んでみてください。
執筆:島崎 敢 近畿大学准教授