何かにお金や時間を費やした後、「ここまでやったのだから」という理由だけで、やめるにやめられなくなった経験はないでしょうか。
つまらない映画でも、チケットを買ったからには最後まで観てしまう。
読みかけの本が面白くなくても、途中までページを費やしたから最後まで読む。
こうした判断は日常的に起きていますが、実はこの心理が、安全に関わる重大な意思決定をも歪めてしまうことがあります。
サンクコスト効果(Sunk Cost Effect)とは、すでに支払ったコストを取り返したいという気持ちから、合理的には撤退すべき状況でも投資を続けてしまう心理的傾向のことです。
心理学者のアーケスとブルーマーが1985年の研究で体系的に実証し、広く知られるようになりました。
「サンクコスト(Sunk Cost)」とは「埋没費用」を意味し、すでに支払われて取り戻すことができないコストのことです。
合理的な意思決定では、過去に支払ったコストは判断材料に含めず、これから得られる利益とこれからかかるコストだけを比較すべきです。
しかし実際には、私たちは過去の投資額が大きいほど「もったいない」という気持ちに引きずられ、撤退の判断が遅れてしまいます。
サンクコスト効果には「コンコルド効果(Concorde Fallacy)」という別名があります。この名称は、英仏が共同開発した超音速旅客機コンコルドに由来します。
コンコルドはマッハ2で飛行し、通常8時間かかる大西洋横断をわずか3時間半で結ぶ画期的な航空機でした。
しかし座席数の少なさ、高額な機体価格、燃費の悪さなどから、開発途中で採算が取れないことが明らかになっていました。
それにもかかわらず、それまでに費やした莫大な開発費を理由に計画中止を決断できず、商用飛行にこぎつけたものの、結局さらに赤字を拡大させてしまいました。
サンクコスト効果は、安全に関わる意思決定の場面でも深刻な影響を及ぼします。
たとえば、すでに多額の費用を投じたプロジェクトや設備に安全上の問題が見つかった場合、「ここまで投資したのだから」という心理が、計画の中止や大幅な見直しの判断を遅らせることがあります。
冷静に考えれば、過去の投資額に関係なく安全上の問題には対処すべきですが、サンクコスト効果はその判断を歪めてしまいます。
危険な状況からの撤退判断にも影響します。登山やアウトドア活動で天候が悪化した際、「ここまで来たのだから山頂まで行きたい」という気持ちが撤退を遅らせ、遭難につながるケースは少なくありません。
ここまでの移動にかけた時間や体力はすでに埋没したコストであり、これから先の安全だけを基準に判断すべきですが、サンクコスト効果がそれを妨げるのです。
また、本辞典の「グループシンク」の回で取り上げた集団浅慮と組み合わさると、影響はさらに深刻になります。
組織全体が「ここまで投資したのだからやめられない」という空気に支配されると、個人が疑問を呈することも難しくなり、誤った方向への突き進みに歯止めがかからなくなってしまいます。
サンクコスト効果は、私たちの日常のあらゆるところに潜んでいます。
毎月付録のプラモデルの部品が送られてくる雑誌をなんとなく買い続けてしまうのも、脈のない相手にプレゼントを贈ったからとしつこくアプローチしてしまうのも、サンクコスト効果が関係しています。
サンクコスト効果に対抗するための基本は、まずこの効果の存在を知ることです。「ここまでやったのだから」という気持ちが湧いてきた時に、「これはサンクコスト効果ではないか」と自問できるだけで、判断の質は大きく変わります。
意思決定の場面では、「もし今日この時点で初めてこの判断をするとしたら、同じ選択をするか」と問い直すことが有効です。
過去の投資を一旦脇に置き、これからの見通しだけで判断する。いわゆる「損切り」の発想です。
すぐに撤退すれば、損害はその時点までのもので留めることができます。「もしかしたら事態が好転するかも」と都合よく考え、さらなるコストを投じた結果、損害がさらに拡大してしまうことは避けなければなりません。
安全に関わる判断では特に、過去の投資にとらわれず、「これから先」の安全だけを基準にする意識が求められます。
執筆:島崎 敢 近畿大学准教授